朝5時前、まだ薄暗い千葉県柏市の手賀沼のとある場所に到着。葦(よし)が踏みつけられて、誰かが何度か通った形跡のある場所。
先日ここを通って沼との間の僅かな泥地の廃船の上で釣りをしたのとほぼ同じ場所だ。
辺りが薄暗いと、足元も見えにくい。それに、先日来たときよりも沼の水位が上がったようで、ウェーダーの膝丈くらいまで水に沈む。
普通の長靴では水が中に入り込んでしまう深さだ。
やっぱり思い切ってフィッシングウェーダー(所謂胴長)を買っておいて良かった。
この沼の乗っ込み期に釣りをするために新調したものだ。
これなら例え深みにはまっても、流石に胸の高さまで沈んでしまうほどではないので、
岸際の大抵の場所なら歩くことができる。
さあ、水面が見える場所まで進もう。

先日と同じ場所に到着すると、汚れた赤い腹を見せていた廃船の姿がなくなっていた。
もしや、増水して流されてしまったのか?
一瞬そんな考えが浮かんだが、よく見てみると、水中に何か大きな塊が沈んでいるのが見える。
廃船は同じ場所にあった。水嵩が廃船の高さをはるかに上回っていたため、自分が気が付かなかっただけだった。
今日は雲の多い空。こういう日は、雲の白みがかった灰色が水面に映り込んで水中のものを隠してしまう。
まんまと沼に騙された形だ。
それにしても、静かな水面だ。
自分がイメージしていた乗っ込み期の水際は、へらぶな達が彼方此方でバシャバシャと音を立てて
枯れた葦の幹を揺らし、メス1匹にオスが数匹後ろを追いかける形で彼方此方で産卵をしている光景。
そんな光景がどこにも見られない。

右を見ても、左を見ても、状況は同じだ。
ただ自分一人だけが、釣り道具をごそごそとヘラバッグから取り出し、釣り台の所定の位置に配置している作業音を立てている。
今日はハズレの日に当たってしまったか?
心の中で少し弱気な自分が頭をもたげる。
こういう時、どんどん悪い方に考えてしまうのは良くない。
きっと会社でこういう期待外れな事が起きると、ネガティブ思考が加速してしまいそう。
だが不思議なことに、釣り場に居る時の自分は、何故かポジティブ思考優位なのだ。
まだ釣りを始めてみないことには、どうなるか分からない。
若しかしたら、これから魚達の活性が上がってくるかもしれない。
そんな元気が湧いてくる。
なぜこんな前向きな気持ちになれるのだろう。
想像するに、それは自分がこのような自然の中に身を置くことで
何か良いことが自分の頭や心に作用しているからかもしれない。

一人で自然の中に居ると、普段考えないようなことが頭の中を占有していく。
仕事でうまく行かなかったことや、人間関係のモヤモヤのことではない。
全て、今目の前にある光景から、次に待ち構えていることを想像する思考だ。
目の前にある釣り竿を継いでいくときは、
魚が掛かった時にすっぽ抜かれないように込み部分をしっかりねじって入れないと。
とか、
玉口の部分を壊さないように、穂先と穂もちの部分が真っすぐ入るように気を付けよう。
とか。
一つ一つの作業をする時に、注意しなければならないことを、心の中で唱えながら手を動かす。
竿、道糸、浮き、オモリ、ハリのセッティングが全て仕上がるまで、この集中した作業が続く。
この作業で10分程度はあっという間に過ぎていく。

仕掛けの準備が出来上がったところで、目の前の道具からふっと頭を上げ、また沼を見渡す。
相変わらず、水面は”異常なし”か・・・
目を凝らして注意深く沼の水面を見渡しても生命反応らしきものはない。
こんな静まり返った沼の中に、へらぶなは居るのだろうか?
これだけ広大な沼だ。それなのに、自分が居る場所にピンポイントでへらぶなが居るということの方が奇跡だろう。
それに、へらぶなは回遊性の魚なので、今この時間帯は姿を見せなくても、そのうち回遊してくるかもしれない。

また視線を自分の目の前に戻し、今度は今日のエサを作り始める。
この時期の定番の釣りと言えば、両グルテン(上バリと下バリの両方にグルテンエサを付けること)の底釣りだ。
先日情報収集した時に、この近くのポイントで良い釣果を得た方から教えて貰ったブレンドを試してみよう。
凄グルは、エサ付けの際に手にベタベタくっつかずに丸めることが出来る。
そして、グルテン四季はマッシュポテトが多めに配合されているので、ボソっとしていて水中でエサが開きやすいのでへらぶなへのアピール度が上がる。
これらの2つのエサに対して、自分としてはそんなイメージを持っている。
2つのエサをそれぞれ1カップずつ、そして水を2カップ入れてかき混ぜる。
これが基本配合だ。

出来上がったばかりのエサ。まだ水の量が少し足りないようで、ボソッとした感じだ。
左手の親指、人差し指、中指の3本の指でエサをつまんで小さなダンゴを作る。
大きさはパチンコ玉ほど。と言っても、最近はパチンコをする人も少ないので、どれぐらいの大きさか想像がつかないかもしれない。なかなか良い例えがないので寸法を言ってしまうと、だいたい直径1cm位だ。
私は、ハリがしっかり隠れる大きさに仕上げている。
なぜなら、ハリの一部が見えてしまうと、へらぶなが警戒して食いが悪くなると考えているからだ。
まず最初の1投は、基本配合そのままの状態のエサを振り込む。
大抵、これだけでは浮きのトップが自分のイメージするような目盛りまで沈まなかったりするので、この後エサの水分量を調整しながら何度か振り込みを繰り返す。

エサをハリに付けて、ようやく第1投目。
時刻は5:51。もうここに来てから1時間近く経過している。
気温は10℃。風は北北東の風が1m/s。寒いけれど、幸い風が弱いので体感的にはそれほどではない。
それに今日の日中の予想最高気温は23℃と表示されている。
今は防寒着を着ているが、まだ3月下旬と言うのに昼間はかなり暑くなりそうだ。
この時計、様々な情報が瞬時に分かるため、釣りの場面では本当に重宝している。

ここから1時間20分、エサ打ちを繰り返す。
出来るだけ、同じ場所にエサが着水するように。
はじめの数投は、少し多めにとったエサを親指、人差し指、中指の先を揃えて軽く抑えるようにして、小さな三角錐のような形になるように成形して角をつける。
そうすることで、水中でエサは、角の付いた部分から早く溶けていくのだ。
こうして、水底のほぼ同じ場所に、ばらけたエサが降り積もっていくようにして魚にアピールする。
そうかと思えば、形だけでなく、エサボウルの中に小分けしたエサの一部の上から、別のエサボウルに汲んでおいた沼の水に浸した手をかざし、滴った水を混ぜ合わせて水分量を増加させる。
こうすると、同じ力で成形してハリに付けたエサはより柔らかく、ハリ残りしやすくなる。
エサの大きさを変えたり、ハリ付けする時の形を変えたり、水分量を調整したり。
エサだけでなく、アタリが全くなければ、水中のエサの落下速度をゆっくりにし、よりへらぶなにアピールするようにハリスの長さを長くしたり。
様々な変数について、魚の反応が出るセッティングを求めて調整していく。
このプロセスが、魚との対話の時間だ。
7:09、待望のアタリ。
玉網に収まったのは、まぎれもないへらぶな(手賀沼ベラ)だ。

数年前に自作した検寸台に載せてみると、サイズは33.7cm。
乗っ込み期のへらぶなとしてはちょっと小ぶりだが、抱卵しているようでお腹は膨れている。
魚に負担をかけないように、手早く検寸したら、玉網に入れて直ぐ水の中に返してあげた。
いつ釣行しても、最初の1枚のへらぶなは貴重でありがたい。
1枚釣り上げられただけで、もし釣れなかったらどうしよう・・・。という不安が解消されるからだ。
0か、1か。この差は無限だ。

その後もほぼ同じようなサイズのへらぶなが釣れ続いた。
7時台に2枚
9時台に3枚
10時台に3枚

12時少し前になると、早朝とは打って変わって風が強くなり、沼の水面に波が立ち始めた。
ただ、今日の風は自分の背中側から吹いてくる南風。
エサを振り込むには追い風になりやり易い。
この時期、まだ北よりの風が吹く日が多いのだが、今日は天気予報で日中南風が吹くことを知ってこの場所に入ったので、想定通り。

約8mほど前方にあるへら浮きのトップ。いつもならオペラグラスとスマホの自撮り棒を改造して自作したスコープ越しに見るのだが、今日は肉眼でも目盛りが良く見える。
おそらく、自分が持っているへら浮きの中でも比較的太めのトップの浮きを選択したことと、適度に日射があって、塗り分けられたトップの色が鮮やかに見えるからだろう。
釣りを快適にするための道具の選択も、自分なりの根拠を持って行っている。
だから納得感があるのだ。
上手くいかなかったとしたら、それも自分の選択ミス。誰を責める訳ではなく、自己責任だ。
でも、例え選択をミスしたとしても、違うと思ったら、すぐに再考した新たな根拠に基づいて修正していけばいいだけのこと。
釣りというのはトライ&エラーの繰り返し。
間違うことなんて当たり前にあるし、だからといっていちいち落ち込む必要なんてない。
エラーは改善、進歩の母なのだ。

今日は、釣り始めの早朝よりも、むしろ日が高くなるにつれて、魚の活性が上がりアタリが増えた。
11時台に5枚
12時台に5枚
釣りというと、どうしても早朝がチャンスタイムと考えがちだが、こんな風に常識と思うことが当てはまらないこともある。
このまま釣り続けたら、午後までにもっと数を伸ばせるかもしれなかったが、今日はなぜかこれで十分満足してしまった。
へらぶな釣りを始めたばかりの頃は、夜明け前から夜まで、最長17時間釣りっぱなしなんて、バカなことをしていたものだ。
だが、今はそこまでしなくても、潮時というか、ちょうどいいやめ時が分かるようになってきたかな。

道具を片付けて、元来た道を戻って振り返ると、ついさっきまで竿を出していた場所が小さく見える。
こんな枯葦の間の溝のような場所の先に、ざっと7時間、一つの事に没頭できる空間があった。
今日は、釣りの最初から最後まで、沼の水面にへらぶなのもじりはなかった。
それでも水中ではしっかりと、時計もカレンダーもないのに間違いなく春が来たことを分かっている魚達が新しい命をこの世にもたらそうと活動していた。

家路に就く車の中で、心地よい満足感を噛みしめながらも、自分の頭は既に次の釣行に想いを馳せていた。
明日は何処へ行こうか。