佐藤 泰東(さとう やすはる)|野のへらぶな釣り心整家(しんせいか)
ごあいさつ
この度は、私のホームページにご訪問頂きまして、ありがとうございます。
私は、野のへらぶな釣り心整家(しんせいか)の佐藤泰東(さとう やすはる)と申します。
責任世代の方が、野のへらぶな釣りで心を整え、自信を取り戻す応援をする活動をしています。
こちらのプロフィールでは、私が野のへらぶな釣り心整家という仕事を始めることになるまでの経緯、現在の活動とビジョン、私にとっての野のへらぶな釣りに対する思い、そしてあなたに伝えたいメッセージを綴っています。
佐藤泰東という人間が何者なのかを、より深くご理解いただく参考になれば幸いです。
幼少期からの歩み
生誕と幼少期
私は1970年7月30日、宮城県石巻市(いしのまきし)という港町で、電力会社に勤める会社員の父と、専業主婦の母との間に生まれました。
私は一人っ子でしたが、物心ついた頃から、教育熱心で厳格な母に、周囲から「お利口な子」、「優秀な子」と褒められるような子供になることが素晴らしいことであり、それが自分の目標である、と自然に頭に刷り込まれるような育てられ方をしてきました。
私の両親は、父が工業高校卒、母が普通高校卒で、決してエリート一家と言う訳ではありません。また、住んでいた地域も、現在の首都圏のような、幼い頃から学習塾通いや、有名私立のお受験が当たり前の地域柄でもありませんでした。
我が家は、父は教育に関して積極的に口にする人間ではなかったのですが、母は(後にその生い立ちについて話を聞いたことで理由が納得できたのですが)学歴に対して非常に執着の強い人物でした。
母と父は子供の教育に対して全く異なるスタンスだった
私が幼稚園の年長の頃、社宅のアパート暮らしをしていたのですが、我が家の一つ上の階に住んでいるお宅に、高校生のお兄さんが居ました。
母によると、そのお兄さんは、県内で一番学力の高い高校に通っているとのことで、母からは常々、
「あなたも将来、あのお兄さんと同じ、県内で一番頭のいい学校に入るのよ。」
と言われていました。
またある時は、母の従弟の話をされたことがありました。
「私の従弟が入院している病院にお見舞いに行ったことがあるんだけど、ベッドで英字新聞を読んでいるのでびっくりしたの。あの人、〇〇大学卒で一流企業に入っているんだって。凄いね~。あなたもお母さんの従弟みたいに、いい大学に入って、いい会社に入るのよ。」
こんな話をされても、高々5歳、6歳の私には、何のことか良くわかりません。
ですが、
「そういう頭のいい人が通う高校に入って、優秀な大学、一流の企業に入るとお母さんが喜んでくれるんだ!」
「だから僕は、頑張って一杯勉強もするし、お利口な子供になって、お母さんに褒めて貰うんだ。」
という意識が、時間を掛けて頭の中に染み付いて行ったようです。
一方、私が父と一緒に過ごせるのは、朝、平日の夜と日曜日くらい。それも平日は、私が寝るのが20時と決められていたので、父が会社で少し残業すれば、ほとんど顔を合わせることはできませんでした。
このため、幼少期の父の思い出は、平日よりも休日に遊んでもらったことの印象が強いのです。
父は若い頃から沢山の趣味を持っている人でした。
野球、軟式テニス、バレーボール、バドミントン、そして釣り。足も速くて、小学校低学年の頃の運動会で、父親が走るリレー種目があったのですが、その走る姿が恰好良くて、1位でゴールする姿を見ると、私は幼い心にとても誇らしく思ったものです。
私が幼稚園児の頃は、社宅の周囲は宅地造成や、未舗装道路の舗装工事が盛んに行われていたため、外で遊んでいると、毎日のように、様々な種類の大きな建設車両が道路や造成地で動いている様子が見えました。
私はその大きな重機が砂利道の表面を削り取ったり、アスファルトを敷いて行ったり、それを均して平らな道路にしていく様子や、木をなぎ倒し、起伏のある土地を削り取った土を積み込んだ大型ダンプカーが何台も往復する様子を見るのが大好きでした。
また、社宅の近所には、ガマの帆が生えている湿地や、生き物が住んでいるような、コンクリートで固められていない自然の小堀があり、長靴の深さを超えて、どっぷり水が入ったままの足でカエルの卵を取ったり、網でザリガニ採りをしていました。
大抵、このようなことをして家に帰るのがちょっと遅くなったり、ドロドロになった長靴と洋服で自宅に帰ると、鬼の形相の母が待っていて、こっぴどく叱られました。
また、私が住んでいた地域で昔から暮らしている家庭の子供達は、現地の方言や鈍った言葉を話していました。
私の両親が石巻市に住みついたのは父の会社の転勤によるもので、私の一家はいわゆる転勤族です。
母は別の市(そこも田舎町ですが)で育ったものの、自分の子供が方言を話すことを極端に嫌っていました。
地元の小学校に入学し、私が友達と外で遊んでいて、友達を真似てその地域の方言を話している姿を、私の母はアパートのベランダから見下ろしていたことがあります。
たまたま母と目が合うと、母が非常に怖い顔をして私を呼ぶのです。
何事かと思いながら、アパートの直下まで近づくと、
「そんな田舎の言葉を使うのはやめなさい。あなたは将来、都会の学校に通うのよ。」
と、友達には聞こえないように、小さな声で厳しく注意されました。
私は、どうして自分ばかり、あれをやっちゃだめ、こんなことをするのは悪い子だ、などと注意ばかりされるのだろう。と悲しい思いでした。
そんな毎日を過ごしていたため、私は、母の前ではいつも立派ないい子でなければならない。そうでないと母に叱られる!という意識が常に頭の片隅に場所を占め、自分を縛り付けていくようになります。
その一方、私は父から同じような理由で怒られたという記憶はありません。
私は勝手に、父に対して「お父さんは僕の見方だ。」と思っていました。
そんな父ですから、日曜日には、いつも父のやることに興味深々で、父と同じことをするのが楽しくて仕方ありませんでした。
車の洗車の手伝い、社宅周囲のどぶ掃除、父が会社の同僚とスポーツの練習に行くのに連れて行ってもらったり。
そして、釣りという、その後現在に亘って私の人生に欠くことのできない趣味と出会ったのです。
人生で初めての釣りとの出会い
初めて父に釣りに連れて行ってもらったのは、確か幼稚園の年長か、小学校1年生の頃だったと思います。
私が人生で初めて釣りを経験することになった場所は、石巻市の郊外にある、北上運河という、海に繋がっている汽水域の水路でした。
2011年の東日本大震災の際の津波のために、現在は失われてしまったようですが、当時は運河の両岸が松林で、石積みの護岸帯だったと記憶しています。
この釣りの狙いはハゼという魚です。
当時はそれほど珍しい魚とは思っていなかったのですが、現在は昔のように簡単には釣れないようです。
首都圏では、「江戸前のハゼ」というと天ぷらで頂く高級魚というイメージを持っている方が多いと思います。
私はこのハゼ釣りをするための、釣り道具の準備、エサの調達、釣り場の風景、釣り場での実際の釣りの様子、釣った魚を捌いて食べる、という全てのプロセスを目の当たりにして以来、釣りの面白さの虜になりました。
元々、身近な自然の中で生き物を自分の手で摑まえることや観察することに好奇心を抱いていた私にとって、釣りというのは恰好の題材でした。
釣り道具や小物類を父が買ってくると、「これは何をする道具何だろう?」、「どうやって使うんだろう?」という疑問が次々湧いてきました。
また、エサの調達について、今では釣具店でエサを買ってくるというのが当たり前の時代ですが、この頃、父は私を近所の畑の片隅にある堆肥の山の前に連れて行きました。割りばしを渡され、
「この山を掘ってごらん。」
と促されます。何のことか分からず、割りばしで堆肥を掘り返してみると、中からわんさかとミミズがはい出てきました。
「ミミズってこんな場所に住んでいるのか!」
私は興奮しました。そのミミズを割りばしでつまんで、エサ入れに移していきます。父がそうしている姿を見て、私も真似をしました。
準備が揃って釣り場に向かいます。
車の後部座席に座っていると、まだ体が小さかった私は窓ガラスの位置が高くて外の様子はあまりよく分かりません。空しか見えない状態のまま数十分乗っていると、運河に到着しました。
父が釣り道具一式を持ち、私もその手伝いをして釣り場まで運びます。松林の先にある竹の茂みを搔き分けると、突然運河の水面が姿を見せました。
足元の石積み護岸が浸っている水は透明ですが、運河の中ほどは深緑色で、中の様子は見えません。
道具を置き、そこで父は竹で出来た釣り竿を竿袋の中から取り出し、竿先の細い方から1本づつ、竿を継いでいきます。それを見ていると、繋ぎ終わった竿は非常に長いものでした。私はこの竿の構造を見て感動しました。
「釣り竿って、こんな風に組み立てて使うのか!自分もやってみたい!」
もう一つ、驚いたことは、釣った魚を水に入れて活かしておく、直方体のオレンジ色の布製バケツでした。「何故布で出来ているのに、水が漏れて来ないんだろう?」私はそれが不思議でした。
そして、父が釣りをする様子を見て、
「ミミズをハリに付けるにはどうすればいいのだろう?」
「竿をどんな風に振ったら、エサを水の遠い場所まで届けられるのだろう?」
「丸い玉ウキは、魚がエサを食べると、水面でピョコピョコ上下に動いて水面に輪のように波ができるのか。」
など、一つ一つの動作や道具の状態が目に焼き付いて行きました。
父が釣ったハゼを布バケツに汲んだ水に入れると、魚達は元気にその中を泳ぎまわります。
釣りを終えて自宅に帰る時、バケツの水の量を減らしてこぼれないようにして、魚が生きたまま持って帰りました。クーラーボックスというものがあることを、当時の私はまだ知らなかったのです。
自宅に持ち帰った魚を父が捌き、天ぷらにします。私は、普段の料理を母が作っているのは見ていましたが、父が料理を出来ることを知りませんでした。
包丁で器用に魚を捌き、天ぷらを作る父の姿を見て、自分もこんな風に、自分で釣った魚を調理出来たら恰好いいだろうなぁ。と憧れを抱きました。
現在の私は、自分で釣った、食べられる魚は勿論、スーパーや鮮魚店でお頭付の魚を妻が買ってきた時は、ほぼ全て私が捌き、下ごしらえをします。
幼い頃から父のやることに尊敬と憧れを抱き、
「自分も同じことが出来るようになりたい!」
という気持ちが、私を魚釣りという奥深い世界に誘っていったのです。
釣りが私をイジメと孤独から救ってくれた
小学校3年生になる前の春休み、父の転勤の都合で、私は石巻市から仙台市に引っ越しました。
引っ越した先は社宅ではなく、両親が新興住宅地に購入した新築一戸建ての家でした。
二階建ての家で、私は二階の南側に子供部屋をもらいました。
人生初のベッドを買ってもらい、新しい環境でどんな毎日が待っているのかワクワクしていました。
新学期が始まり、地区で定められた学区の小学校に通うことになりました。
その小学校は、完成したばかりの新しい4階建ての校舎でした。
小学校の周囲は、住宅地造成が行われたばかりで、戸建て住宅の建設ラッシュ。新築の家が次々に建っていきます。
これに合わせて、新しい家庭がこの地域に居を構え、小学校には、以前からある、周囲の住宅地に住んでいる家庭の子供達よりも、転入してくる子供達の方がはるかに多い状態でした。
私も、後者の転入組ですが、仙台市外からの転校生は少数派でした。
私が転入したクラスは、ほとんどが仙台市内の小学校から入ってきた子供達で占められ、新しい小学校ができる前からすでに知り合いになっている子供達がほとんどで、すでに仲良しグループが出来上がっている状態でした。
当然のことながら、私には顔見知りの子供は1人もいません。
自分の中では、「田舎の町から来た子供」という意識があり、自分に引け目を感じていました。
すでに出来上がった仲良しグループに、自分から声を掛けて仲間に入れてもらおう、という積極性が、当時の私にはありませんでした。
幸い、私と同じように仙台市外から転校してきた子供で、私に声をかけてくれた子がいたため、その子とは次第に話をするようになり、友達になっていきました。
ですが、程なくして、私は仙台市内の小学校から転入してきた「都会の」子供達からいじめを受けるようになります。
ある日、休み時間に教室で遊んでいると、突然1人の子供から、「田舎者!」と罵声を浴びせられました。
「お前、何処から来たんだ? 仙台の学校じゃないのか。」
その子供に混じって、同じ仲良しグループのもう1人からもからかわれました。
その後も、その子供達は、ことあるごとに私を小馬鹿にしたり、見下すような言動を繰り返しました。
転校してからしばらく経っても、この子供達ばかりでなく、私をからかったり、遊んでいる間に突然仲間外れにして何処か別の場所にには行ってしまったり、卑劣な扱いをされることがしょっちゅうありました。
小学生時代の私はきっと、いじめたくなるような性格や言動をとっていたのでしょう。
幼い頃に、母にこんこんと詰め込まれた、「お利口な子供」、「優秀な子供」、「真面目で道徳心の強い子供」でいなければならない。という呪縛に囚われていた私。
真面目をバカにする類いの同級生達からは嫌われていたと思いますが、教師からは、一定の評価を受けていたようです。
宿題は真面目にやってきて忘れ物もしない、授業では手を挙げて発言する、テストでもまずまずの点数を取っている。
クラスの中では、「真面目で頭がいい子」という評価がされていたのか、高学年になってからは、何度か学級委員にも推薦され、クラスをまとめる役割を担ったこともありました。
また、小学校6年生では、児童会の書記を務めました。
ただ、私は人の前に立って目立つような、「華を持った」タイプではありませんでした。
ですから、児童会長に立候補することもなく、いつも、一番目立つ人の側に控える2番手、3番手的な立場に置かれるような、地味なタイプでした。
周りのクラスメートの中ではやや頭が良いと思われて歯いたのかもしれませんが、それを面白くないと思う子供達も少なからずいたようです。
小学校当時は、頭が良い子よりも、スポーツが得意な子、クラスの中で目立つようなヒーロー的なタイプの子、皆んなを笑わせるお調子者の子がもてはやされるものです。
それは別に構わないのですが、そのようなクラスのヒーロー的な子供が、裏では私に陰湿な嫌がらせをしていました。
私の心はいつも怒りや悲しみで満ちていました。
この学校には、本当に友達なんか居ない!
うわべだけの付き合いで、誰も信用できない。
そんな悶々としたネガティブな感情を忘れさせ、救ってくれたのが釣りでした。
父は、新しい地域に引っ越した後、どうやって探し出したのか分からないのですが、車で30分ほどのところにある、森林に囲まれた静かな沼を見つけ、週末は私をその沼へ釣りに連れて行ってくれました。
以前は汽水域の釣りでしたが、今度は完全に淡水魚を狙った釣りです。
その釣り場は、深い森林の中の遊歩道を10分ほど歩き、そこから藪をかき分けていくと、急に竿を出せる開けた場所が現れる、子供の私にとっては、まるで探検をしているようなワクワクした気分になれる釣り場でした。
今ならインターネットで検索すれば、即座に釣りが出来る場所を調べることが出来ますが、その当時は、当たり前ですがスマホもパソコンもない時代。父がどのようにこの釣り場のことを調べたのか、今思うと不思議です。
この沼は子供の目から見ると非常に広々としていて、森林の中を様々な方面に向かって整備されている遊歩道の先から、どうやってあんな場所にたどり着いたんだろう?と思うような、沼の沖合にある小島で釣りをしている人がいたり、或いは自分たちが釣り座を構えている場所の対岸で竿を出している人が居たりと、好奇心を大いに刺激される面白いフィールドでした。
この頃には、私もある程度一人で竿を持って釣りをすることが出来るようにはなっていましたが、唯一苦手なことがありました。
それは、魚が釣れた際に、魚がハリを喉の奥まで飲み込んでしまっていた場合にハリを外す。ということです。
フナ釣りでは、ハリの先に「返し」といって、舟の碇のように、カギ状の部分が付いています。この構造によって、一度魚の口に掛かったハリが抜けないようにするものなのですが、この返しがあるために、ハリを引っ張っただけではなかなか口から外れません。
まして、そのハリを喉の奥まで飲み込んでしまった場合は、手ではハリを取ることができず、「ハリ外し」という金属製の棒の先が平たくアルファベットのCの字のような形に整形されている道具を喉の奥まで入れて、ハリを押すようにして外します。
それが、小学生の私にはどうしてもできず、毎回魚がハリを飲み込んでしまう度に、数m離れた場所で釣りをしている父を呼んで、「魚がハリを呑んじゃったから外して!」とお願いしていました。
父も折角集中して釣りをしている時に、いちいち私からこのお願いをされると、流石にイライラすることもあり、「な~んだ、また。自分で取りなさい!」と機嫌が悪くなることもありました。
それから時には、エサを打ちこむ際に、反動をつけるために竿を大きく後ろに振った際、仕掛けが木に引っ掛かってしまったり、逆にアタリがあった時に勢いよく竿を上げてしまったために仕掛けが後方の木の枝の高い位置に引っ掛かって取れなくなり、私は癇癪を起してしまうこともありました。
そんな面倒臭い小学校中学年頃の私を、時に喧嘩して釣りに行かない週末もありましたが、大抵はまた仲直りして釣りに連れて行ってくれた父。
自分だったら、子供にそこまでしてあげられただろうか?そう思うと感謝しかありません。
様々な釣りを経験した学生時代
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キャリアの足跡
私はこれまで、3の会社で合計28年間、電力に関わる仕事をしてきました。
大学院修了後、電力会社に入社。国内部門で11年間、海外部門で5年の合計16年、送電線に関わる仕事をしました。
その後、開発コンサルタント企業に転職し、6年間勤めました。
開発コンサルタントという仕事はあまり聞きなれないかもしれませんが、簡単に言うと、発展途上国の電気、水道、道路などの社会インフラ整備の技術支援を行う仕事です。
そして現在、現業として生可能エネルギー事業を行う会社で太陽光発電所や風力発電所の開発に関わる技術の仕事をしています。
大きな転機
私の人生を振り返ると、30代までは比較的プラスの時期だったと思います。
大学入試の失敗や、アメリカ留学が予定より1年遅れたという挫折もありました。
しかし、そのような困難の後には、努力が報われる結果を得てきました。
40代に入ると、状況は一変しました。
10年以上にわたり、マイナスの状態を繰り返す日々が続きました。
人生の最大の転機となったのは、41歳で経験した東日本大震災です。
当時、私は福島第一原発事故の当事者企業に所属していました。
ただし、私の仕事は原発とは無関係で、海外送電線開発のコンサルティングを担当していました。
やりがいを感じながら充実した日々を過ごしていました。
しかし、事故の影響で国内部門に異動となりました。
これを機に、私のモチベーションは大きく低下しました。
さらに、社会からの厳しい視線を感じる中で、会社にいることが息苦しくなり、人生で初めての転職を決意しました。
転職後、コンサル企業では専門外の部署で管理職を任されました。
しかし、上司からのパワハラや部下との軋轢に苦しみ、2度目の転職を決断しました。
49歳の時、現在の会社の前身にあたる企業に入社しました。
しかし、そこでも業務の重圧や上司からのパワハラが続き、精神的に不安定な状態に陥りました。
そんな中、51歳で「一人商い」を学ぶコミュニティスクールを見つけました。
そこで、「自分らしい生き方を実現する」という目標を見つけ、現状を耐える力を得ました。
しかし、限界を迎えた私は適応障害を発症し、長期欠勤や依願降格、減給、配置転換を経験しました。
この一連の経験から、私は大きな気づきを得ました。
「他人の期待に応えるために無理を続ける生き方は、これまでの半世紀で終わりにしよう。」
そう決意したのです。
人生100年時代の後半は、自分を大切にし、心からワクワクすることを通じて幸福を感じられる生き方をしたい。
そう考えるようになりました。
さらに、これまでのネガティブな経験と、それを克服して前向きな人生を歩み始めた実績を活かしたいと思っています。
私と同じように苦しんでいる同世代の方々が、心を開き、辛い気持ちを吐露し、心の重荷を下ろす場を提供したいのです。
そして、自分の本当に望む生き方を見つけ、その実現に向けて一歩踏み出す自信を取り戻すお手伝いをしたい。
その思いが、今の活動を始める原点となりました。
野のへらぶな釣り心整家を始めるに至るまで
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現在の活動とビジョン
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私にとって「野のへらぶな釣り」とは
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