夜明けを待てず、一人音を立てずに起き出し家を出る。
行先は千葉県柏市にある手賀沼。
とあるプロアングラーの方から教えて頂いたポイント。
誰かに先を越されはしないかという焦りの気持ちを抑えつつ車を走らせた。

3月初めの5時半の薄暗い空気の中に、枯れ蘆原、そしてその先には広大な沼が横たわる。
まだ誰も来てない。
孤独感はない。それよりも、一番に現場入りし、自分の好みの場所を最優先で選択できる安堵感に満たされる。

東の空が白み始め、自然が織りなすグラデーションの美しさ息を呑む。
この静寂の中、神秘的な光景を独り占めする特別な時間。

まだ冬枯れた大木の細い枝の一本一本の間を様々な淡い色の光が通過する。
まるで影絵を見ているかのよう。
その後方には微風が吹き渡ることで、沼の水面に極めて振幅の小さな波紋が蜃気楼のように揺らめいていた。
水面に僅かでも魚の気配を感じさせる動きがないかと目を凝らす。
どうやらまだ春の祭りには早いようだ。

枯れ蘆原の先に、人が分け入ったせいか、小路のようなものが出来ていた。
このポイントに入るために新たに購入したフィッシングウェーダーを履き、満を持して蘆原に足を踏み入れた。
ウェーダーのソールを介して感じられる湿地の土の柔らかさ。
簡単に足の甲の高さまで沈み込んでしまうが、胸元までの長さがあるウェーダーを装着しているから、この程度のぬかるみには動じない。
蘆原が開けた先に、朽ち果てた小舟が腹を見せていた。
これはちょうどいい足場を見つけた。
その周囲はぬかるむ湿地。釣り台を設置するなら、この小舟の上しかない。
今日はついているな。

ふと足を止めて周囲を見渡す。
蘆原と沼の境目が延々と続いている光景。
朝日の光を浴びて、枯れ蘆が黄金色に輝く。
新緑が芽吹く前の季節ならではの美しい景色だ。
今日はこんな最高のロケーションで釣りが出来るんだな。
まだ釣り台も用意する前から、心が満たされてゆく。

今日の竿は何尺を使おうか?
沼の水面と、足元の水深、沼の水底の地形を想像しながら思案する。
目の前は水底が見えるほど浅い。更には遠浅の地形のようだ。
まだ乗っ込みには早すぎる時期だから、魚達はもっと沖の少し水深のある場所に居るかもしれない。
自分なりの分析結果を基に、そんな仮説を立てて長めの17尺を選択した。

釣り台の上に仮置きした道具たちを一つひとつ組み立てていく。
湿度によって、差し込み部分の密着度が変化する。
この時期、乾燥した木は収縮するため隙間が広がる。
木綿糸を短く切ったものを差し込み口に入れてすき間を埋める。
誰かから教えてもらったわけではない。
これは私なりの現場経験から得た工夫の一つだ。
今手元にある小物で何とかする方法を考える。
こういう小さなことでも、自分で考えたことが釣りを快適に出来た経験が、ささやかな自信につながるのだ。

さあ、釣り道具のセッティングはできた。
エサの用意も出来た。
釣り場入りしてからここまで30分。
へらぶな釣りは、準備の過程も自分と向き合う時間。
時間を掛けて、手抜きをせずに一つひとつの道具を準備する。
今日のコンディションに合わせて、想定される状況を予見し、快適に釣りができるように微調整する。
自分のように、日常些細なことが気になって仕方がない人間。
世間的には、「神経が細かい人」、「気にしすぎる人」などと、あまりいい印象を受けないのかもしれないが
むしろ大ざっぱな人間よりも向いている気がする。

小舟の上に釣り台。
なんとも面白いじゃないか。
この場所も今でこそ土の上を歩けるが
あと少しして田んぼに水が入り始めると、完全に水没してしまう。
小舟を目に出来るのは今だけかもしれないな。

釣り座の準備が出来たので、釣りを始める前に一息入れる。
ずっと座りっぱなしは腰に悪い。
1時間に1回は立ち上がって歩くように心がけてはいる。
(釣りに夢中になると、その心がけまで忘れてしまうこともしばしばだが・・・)
遠目から自分の釣り座を見ると、如何にちっぽけな場所に居るのだろうとあらためて思う。
この小さな場所で一人の人間が一日我を忘れて夢中になれる。
なんとも不思議な感じだ。

さあ、第1投目。
うきは約10m先に立っている。
雲が水面に映り込むと、その白い色に浮きの色が同化してしまい、肉眼で浮きの動きを追うのは目が慣れないとなかなか難しい。
裸眼では特に光の具合で見にくいので、偏向グラスを掛ける。
更に、オペラグラスとスマホの自撮り棒で自作したスコープで拡大された浮きの目盛りの動きに神経を集中する。
この時間は、自分にとって他の一切の煩わしいことや悩みを頭の中から消し去ることが出来る。
仕事の悩みも、人間関係の悩みも、家庭の悩みも、全てこの浮きを見ている時間のお蔭で消し去れた。
思考をリセット出来る貴重なひとときだ。
広大な沼のどこかにへらぶな達が回遊している。
それがたった一本の竿先についた、細い1本の糸に付けた小さな2本のハリで釣れるというのはまさに奇跡だ。
いつ釣れるとも分からない時間が流れていく。
どうしたらアタリをもらえるかを考え続ける。
出来る対策を試してみる。
それでも何の反応がなければ、今日ここには魚がいないかもしれない。
そんな時は、ヤケにならず、自然の癒しを体いっぱい感じ、自然のなすがままにすれば良い。
人間の想いや希望なんて、自然の前では何の力もないのだから。
今日唯一のアタリは、野鯉のものだった。

へらぶなと同じサイズでも、野鯉の引きは強烈だ。
魚体の形状のせいなのか?
それとも筋肉の発達が違うのか?
食べているものの違いがパワーに効いているのか?
人間も、体型が同じでも力の差はある。
それと同じか…
へらぶなは釣りあげられるとおとなしく検寸台に載ってくれることが多いが
野鯉は、別に食われる訳でもないのに
土の上をのたうち回って泥だらけだ。
まな板の上の鯉という慣用句にあるように、もっと往生際が良い魚だと思っていたが
むしろへらぶなの方が泰然としていると思う。
普段、こんなことを考えるなんてまずないだろう。
野釣り場に居るからこそ、日常思いつかないような発想が湧いてくる。

自由に、思いつくままに思索にふける。
そんな時間的な余裕もまたいいじゃないか。
昼過ぎまで竿を振ったが、へらぶなの気配はなし。
どうやらそろそろ納竿した方がよさそうだ。
誰に強制されることもない。続けようと思えばそうすればいいし、
潮時と思えば、次の機会に期待して竿を納めればいい。
全ては自分の思いのままだ。
この釣りは、誰と比べて優劣を競うものではない。
自分自身との無言の対話、自由な発想を誰に咎められることなく試すことができる、心を解き放つ時間なのだ。